おおしたさんの日記

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「働くことがイヤな人のための本」を読んで(曽野綾子のご逝去を知り)

曽野綾子さんの死去を知り書きかけのブログを完成させました。
評伝・曽野綾子さん 「妻をめとらば…」色紙で掛け合いも おしどり夫婦、天国で再会

評伝・曽野綾子さん 「妻をめとらば…」色紙で掛け合いも おしどり夫婦、天国で再会

曽野綾子さんと初めてお目にかかったのは、作家としてではなく、日本財団会長としてだった。平成9(1997)年の夏、曽野会長の海外出張に同行した。

産経新聞:産経ニュース

 


どうせ誰もが死んでしまう。この当たり前に呆然となることがある。深く考えるのが恐ろしくてその問いから逃げることばかりだが、魔がさし問いに挑んだりした時にはとんでもないことになってしまう。

だから哲学者、中島義道さんの「死に比べれば、この世に大した不幸はない」という言葉を見つけた時、必ず訪れる死について、私以上に絶望している人を知り、妙に安心したのを覚えている。

だが、よりよく生きるためには「どうせ誰もが死んでしまう」という問いに答え続けるしかないと中島さんは言う。いやいやそれは聞きたくなかった、目を逸らし死に蓋をする行為を跳ね除け不条理に立ち向かえだなんて、今の自分にできるとは思えない。

そうは言うものの、哲学とはどうもそのためにあるらしい。時間、意識、善、美といった永遠の問いや難問にじっくり腰を据えて取り組み、死に向かう自らの生き方をじっくり探す。この本を読んで、哲学の新たな側面を垣間見た感じだ。
周りの態度や言動を観察し、自らの目や言葉を鍛え、本当の生き方を目指す。何食わぬ顔をして世間の単純労働に身を捧げながら、軽んじれれながら、人生の隠れ修行者となる。
中島義道著「働くことがイヤな人のための本」より)
真剣に生きるとはどういうことを言うのか。先ずは目を逸らしたいことを直視することから始める必要があるらしい。なぜ失敗したのか、なぜあのチャンスを掴まなかったのか、なぜあの子のSOSを見放したのか等々。直視し続ければ「理不尽」という豊かな材料が与えられると中島義道は言うが、中島さんの言葉を実践するのは非常に辛い。

あっそういえば誰かがこんな言葉を残していた。「死の直前まで生き切る」と。とにかく死を意識し豊かに生き切るだけで良いと。今書いてみて、さらにこの意味がわからなくなっている。でもなぜだかここでこの言葉をイメージしてしまった。いつかこの真意がわかる日がくるかもしれない。

ところで中島さんこの著書の中で、曽野綾子さんの「三秒の感謝」を紹介している。
人生を暗く考えがちの人がいるとしたら(私もその一人だったが)、人生はほとんど生きるに値しない惨憺たる場所だという現実を、日々噛みしめ続けることである。そうすれば死に易くもなる。

曽野綾子さんのこの暗いくて深い言葉に、気持ちが温かくなる自分がいる。人生が差し出す不条理を日々噛み締め生きていくだけで良いと言っているように感じのだ。だからこの言葉に温かみを感じるのだろう。

曽野さんからは、その著書からは本当に色々と教わってきました。
ありがとうございました。

曽野綾子さん、ご冥福をお祈りします。

 
曽野綾子著「三秒の感謝」より
もし、その人が、自分はやや幸福な生涯を送ってきたという自覚があるなら、毎夜、寝る前に、「今日死んでも、自分は人よりいい思いをしてきた」ということを自分に確認させることである。つまり幸福の収支決算を明日まで持ち越さずに、今日出すことなのだ。
 五十歳になった時から、私は毎晩一言だけ「今日までありがとうございました」と言って眠ることにした。これはたった三秒の感謝だが、これでその夜中に死んでも、一応のけじめだけはつけておけたことになる。
 しかしもし一方で、人生を暗く考えがちの人がいるとしたら(私もその一人だったが)、人生はほとんど生きるに値しない惨憺たる場所だという現実を、日々噛みしめ続けることである。そうすれば死に易くもなる。

変化を嫌がる人たちと生きる


先日の衆議院選挙、なんだかんだと手伝ってた空本氏の事務所で吉報を聞くことができました(*^^*)

はみ出してしまえば元には戻れない。変化を試みたらつぶされる。そう思い込まざるを得ない場所に長く住み続ければ、変化しないのが当たり前の世界に住み続けていれば、上げる声があることすら忘れてしまう。

緩やかなる環境の劣化に気づかず、状況が深刻になるまで放置することを揶揄したあの茹でガエル理論。深刻なる大病にもかかわらずそれをかすり傷程度だと思い込めるだなんて、この広島の街のような拡張の余地のない閉鎖空間で生きることを強いられれば、そう考えるようになるのもわかる気がする。そして、その空間が適当に広く、変化を嫌う既存の者たちが変化させないようにあらゆる手を打ち続けることのできる環境だというのも質が悪い。東京という未だに拡がりを見せ続ける場所に長年住んだ者にとって、この閉鎖空間に生きることをよしとする人に馴染むことができるのか、心配は尽きない。

話は変わるが衆議院議員選出の選挙が先週終わった。特に広島4区、空本氏と寺田氏の戦いは壮絶を極め、国政選挙であるにもかかわらず、その得票数の差はわずか2,054票。お互い9万票を超えてのこの差だ、メディアが痺れた戦いだと言うのも当然だ。この現状維持を良しとする広島において、どれだけ腐っても自民は自民。裏金献金不祥事に寺田氏の政治資金収支報告偽造等、野党への追い風はあったものの、それでも与党信仰の根強い広島、そんな街で見事に勝ち抜いたのだ空本氏は。変化を極端に嫌う人々の集うこの街が守ってきた保守王国に切り込んだ空本氏を大いに称えたい。

だがしかし、広島の圧倒的閉塞感からくる新しい風を望まない景色はそれはもう見事というしかない。そんな場所で、次はあの巨大な新谷氏と戦うことになるわけだ。さてどう戦うのだろう、秘策はあるのだろうか。政治のドロドロは嫌いだが、その戦いだけは注視したいと思っている。

老若男女全てにおいて、進化変化を嫌うのが地方都市の現状だ。特に空間的拡がりがすでに皆無であるここ広島という閉鎖空間に住むのならば、現状維持への適応が否応のない課題となる。確かにこの街が突きつけてくる現状維持への脅迫はそれはもう見事なもので、与党をああだこうだと言いつつも、この街に住む人々であれば、これからも自民党に票を入れ続けるのだろう。

高校を卒業するまで特に不満無くこの街で育ったが、この街の閉塞感が醸し出す空気に馴染めず、帰ることはないと思って飛び出したこの私だが、他所で歳を重ねた分、この街の面白さにも気づき始めている。この閉塞感への反発が多くの芸能人を輩出することに繋がったのは確かだし、そのガス抜きのためのプロスポーツはこれからも熱狂を生み続けるだろう。そのガス抜きに甘んじて、変化を求めない人の群れはこれからもこの現状を喜んで引き受け続けると思うが、そのような人々をも味方に、興味あるものにチャレンジしていこうと思っている。

どこの誰とも分からない、自分の思う通りに機嫌を取ってくれるネット住民にどっぷりはまり、井の中の蛙はその居心地の良さに沈んでいく。結果、茹で蛙とばかりにそこに慣れ、ネット社会に内在する危険を察知することができず、いつの間にかそこから這い上がれなくなってしまう。 

この規模の街となると、本来ならば大きなベッドタウンが必要なのでしょうが、そういう土地柄なので、人口を増やす余地がないのです。ある意味これ以上拡がる余地の無い完成された街とも言えるので、新陳代謝が生まれにくく、血気盛んな若い子は、その保守的閉塞感に外に出たがるのだと思います。

個性はすでに内在している

毎日弁当を作るようになったので、少し小さめの弁当箱を買ってみました。
このわっぱ弁当箱、ニトリで2,000円しませんでした。
嬉しい!!
魚の匂いが残るとか乾燥に時間がかかるとか、やはり木は色々気を使いますが、それも良いです。
弁当作りがより楽しくなりました(*^^*)

「普通」がわからないと人は生き辛さを感じてしまう。
「そういうものだから」をいちいち分解して考えていては、辛くなるのも当然だ。
本来ならその「普通」は家族というコミュニティーで教わるべきなのだが、家族という単位が崩壊しつつある今、そのポピュラリティの維持は容易ではない。

鍼灸師をしていた時の話です。一人でやっていた治療院というのもあったせいのか、悩み相談に至ることもありました。相談の中で、私は個性が無いとか、適職がわからないとか、やりたい事が見つからないとか言う人が何人もいました。そしてその判断を手相や四柱推命占星術、血液型等々に、将来の事だけでなく恋愛までをも委ねる人も多くいました。
 
でも、個性っていったい何なんでしょうね。これってその人だけが持つ特性のことですよね。他人と同じことをやろうと思ってもできるわけがないですし、だから生きているだけで個性かなって思うのですが。だから個性があるとかないとか、そんなどうでもいいことをなんで気にするのか、正直よくわかりません。
 
あっ、個性といえば、結構知られている、子役から続ける個性的だと言われる俳優さんや、長く最前線で活躍し続けるこれまた個性しかない歌手にコメディアンの方も来院していました。さぞかし普段も個性的かと思いきや、奇をてらうような人に出会ったことはありません。それどころか、一般の方より普通以上に普通の感覚を持っているよう感じる人ばかり。もちろん会うのは治療院だけなので、普段の姿は違うかもしれません。でも普段から奇をてらうような人だったら、何かに長けていたとしても、彼らが相手とする私たち一般人の琴線に触れるものを作り上げることなんてできないでしょう。
 
一人黙々と、といった印象を持つアートの世界だと、作品が全てで人に好かれる要素は必要ないかもしれません。でも個性が大切だと思われる芸能の世界、特にドラマや舞台等、チーム仕事で生き残るためには、世の中の普通を把握しないことには、観客どころかスタッフにも選ばれないような気がします。世の流れ、流行を感じ取る力が強く、それを無意識のうちに収集し体現できる力があるからこそ、あの浮き沈みの激しい敵だらけの世界で生き残る事ができているのでしょう。周りの人が気持ちよく過ごせるための配慮や気配りが自然にできるとか、ほんとそんな方ばかりなのです。思うに暗黙のルールが多すぎるこの日本において、気遣いが何気なくできない限り、どの世界でも成功の土台を作ることはできないような気がします。この一般大衆性とかポピュラリティと呼ばれる、普通の事が普通にできることこそが、実は個性を輝かせるものであり、ひいては長く活躍することにつながると思うのです。
 
そう、個性をちゃんと自分のものにしている人は、自分の好きな事がしっかりあって、そしてそれを社会と照らし合わせて、世の人が喜ぶものに仕上げる力があるんじゃないかなって思ったりしています。
 
となると、自分のやりたいことや個性がわからないという人は、どこかでそれを削がれてしまったのかもしれません。私達は皆、産まれながらに誰かと比べられて生きています。そして認められないと生き伸びる事ができないので、自分をアピールするのも本能のなせるわざのように思うのです。でも認められたい気持ちもそれが行き過ぎればストレスにもなるでしょう。たまり続けたストレスを吐き出す時間を与えられず、今頑張らないと合格しないとか就職に影響するとか、自らを顧みる暇なく頑張ることを余儀なくされたら、やりたいことや個性がわからなくなって当然かもしれません。
 
とにかく生きているだけでそれがあなたの個性だということは心に留めて欲しいです。もしも個性が無いと感じるのなら、それは周りがあなたのそれを奪った結果です。そう感じる自分にした他者が悪いと思えば良いと思います。
 
そして小さな発見やちょっと嬉しかったこと、少し感動した事を十分すぎるくらいに喜び大切に育む。それを続けていけば、自分の好きなことや夢中になれるものに出会えるはずです。
 
自分のやりたいことが見つからないのは、そのほとんどが小さい時にそれを年長者に奪われた結果です。そう感じさせないよう、親だけは、その子の近くにいる年長者だけは、その子の好きを奪わないで欲しい。勉強しろとかこれをしなかったら後悔するぞとか、そんな強制や脅しに屈して生きてきた、劣等感に承認欲求の塊のような方や、好きな事がわからないという方を思い出し書いてみました。

甘やかされて育った子の方が、意外と芯が強い。頑張れ頑張れで育った、幹は太そうに見えるが中はスカスカの子よりも、はるかにしぶとい感じがする。そりゃあそうだ、誰もが自分を好きになってくれると錯覚して成長してきたのだから、どんな苦海にだって飛び込んでいける。

邪魔者を排除すれば幸せになれるのか


夏休みなのですが、社会保険や振込等わからないことが多く、今日も仕事場に行っていました。
ところで最近はバスに乗らないようになりました。1時間に3,4本あるのですが、如何せん渋滞に巻き込まれることが多いのです。そのイライラに耐えられず、一度職場まで走ってみたら、なんだか続けられそうで。それで4時に起きて5時前にジムに行き、少し体を動かし6時過ぎに帰宅。弁当を作って7時半くらいに家を出て、45分くらい走って仕事場に行っています。帰りも走ってるので往復で10kmほど走るようになりました。暑いし荷物もあるので歩行者と同じくらいの速度ですが、広島の素敵な風景に立ち止まりつつ、まあなんとか楽しくやっています。


ということで、今日はこの言葉から思ったことをかいてみます。
邪魔者を排除しないと成り立たない幸せというのは、いつまで経っても、邪魔者を作り続けていくような生き方にならざるをえないのです。

 

嫌いならそこから離れたらいいだけなのに、しつこく攻撃し続ける人が五万といる。そこまで邪魔者扱いしなくてもいいと思うんだけど、つまみ出すまで徹底的にやっちゃえるっだなんて、マジ意味わかんない。

苦手な人って確かにいる。そりゃあ仕方ない、人の考えなんて十人十色、誰もが正しいし、正しくないし。人生のバックグラウンドから全てが違うんだから、物事の切り取り方が違うのは当たり前。だから意見が違う人といる必要なんて無いし、いると正直しんどいし、批判したところで何倍も言い返されるのが関の山。それでも相手がぎゃふんというまでやり続けたいだなんて、本当に意味がわかんない。

気が合わないから、意見が合わないから、社会悪だから、犯罪者だから排除しちゃえっていうの、特にネットで横行してるけど、それちょっと怖い感じがする。だってその考えって諸刃の剣、排除することを是として行動するっていうのはね、自分が排除されることにつながるものなのよ。やったことは忘れても、やられたことは忘れない。なんでもかんでも年月を経て自分に戻ってくるのがこの世の常。

じゃあ自分が邪魔者として攻撃される対象になった時にどうするか。嫌な人や執拗に攻撃してくる人に反撃しないとしたら、どうしたらいいのか。当たり前だけど、とにかくそういう人からはちゃんと逃げる。そして意識から抹殺して気配を消す。だって嫌なヤツのために脳を使いたくないじゃん。例えばライオンと羊が同じ檻の中で共存できないように、人間関係でも決して交わることのできない人はいる。とは言え色々な動物がいて初めて成り立つ自然界と同じで、社会もいろんな人が集まり、互いに相手との距離感に苦労しつつ人間社会を営むわけ。だからちゃんと相手を知って、上手に付き合う手立てを考えないとね。

宗教に政治、経済等々、立場立場で皆さん言い分があると思う。そんな自らの正義とは裏腹の、真逆の立ち位置に居続けなければならない時もある。そう、黒いカラスを白いと言わなければいけないシーンなんてざらにあるの。全てにおいて、白黒つけられる事なんて端からないと悟って、苦手なひととは良い塩梅の距離を保ちつつ、なんとなくやり過ごす術を身につけるのも大切だと思うのです。ちょっと的外れだけど、この一文からこんなことを考えちゃいました。


あなたを嫌いな人は必ずいる。何もしていないのに、あなたを嫌いだと言う人は五万といる。そんな辛辣な世界に私たちは住んでいる。だから何をしても何もしなくても、絶対に愛してくれる人がいるという安心感を、幼少期に育む必要があるのだ。

持ち逃げは不幸を引き寄せる


炎天下での街歩き。
生まれた時にはすでにそこにあった荒神陸橋を久しぶりに歩いて渡ってみた。

誰に対しても、自らの地位を背景にマウントを取り、何かにつけて人を見下し小馬鹿にする。思うようにいかないと、誰彼構わず小賢しく罵り、都合が悪くなれば強引に話を変える。そんな自分を、いかなる状況でも本音が言えて格好良いと思っている節さえあるのも、なんとも悩ましいところ。それでもって、ああ言えば上祐ばりに弁が立つから質が悪い。おい、わかっているか。口の中には斧があるのだ。愛語を持って接すれば、愛語を得るというのに、あれだけ反感を買う言葉を並べれば、そしてそれを良しとしているのなら、自らの首を締めることになるのは言わずもがななのだよ。

面倒臭い奴だけど、距離感保てば危害を加えるようなことはない。だから反面教師としてはありがたい。うんそうなのだ、そんな人をもだ、教師となるのだ。師となる人物は、あちらこちらにいるものなのだ。道ゆく見ず知らぬ人でさえもだ。そんな誰もが私に気づきを与えてくれた。どうしようもなかった私に、道標を与えてくれた。

前より大人になっているとは思いたい。でも今でも自分の惨めさに苛まれ、不安に打ちひしがれる事がある。そしてそこから逃がれたいがために、一日中、自堕落な生活をすることもある。周りからはどうもハッピーな人に見える節があるが、辛い悲しいももちろんある。あっ、思い出した。「嬉しいや楽しいは心に残らないが、辛い記憶はいつまでも心に残る。それは一度立ち止まって自分と向き合うための時間になるから、逃げるんじゃ無くて大切にしなさい」と患者さんに言われた事がある。うん、この言葉には大いに立ち止まり考えられられたよ。

この話で思い出した。借り物という言葉にも救われた。「あなたは色々な借り物を利用しつつ生きているの。大下さんという着ぐるみを着て、大下さんを演じつつ生きているの。借り物なんだから、借りる前よりも綺麗にしてお返ししないとね。あと、この世にあなたの持ち物は一つも無いっていうのも覚えておいてね。そんな感じでね、ちゃんと人生にお返しする事を考えて生きている人がね、幸せな生き方をするのよ」と。

ギャンブルに借金、男女の問題もそう。うまく行かない人に共通しているのは「持ち逃げ」なのよ。借金なんて踏み倒しちゃえ!とか、男女関係なんて、気持ち良けりゃあいいじゃん!とか、与えるよりも奪う事ばかりを考えていれば、運も縁も逃げるというのが世の道理。

相手への反感が過ぎる人は、自己蔑視が強い人だという話、確かにそう。いつも自分を蔑んでいるから、ああいう態度に出られるんだろうね。満たされていない心の隙間を、自分をもっと知って欲しいとか、もっと褒めて欲しいとか、自己蔑視の過ぎる人は、そういうことで埋めようとする。だからしんどいんだよね。まあ、どこかで考え変えないと、人は逃げていくばかりだよ。まあそういうのを繰り返す人はね、一目置かれる存在だと思っている節さえあるから、そういう奴にはね、ああコイツ変わりたくないんだな、って思いながら距離を保つようにしている。

子育てがコストパフォーマンスで語られる時代なんですね^^;


子どもたちが住みやすい世の中になりますように!


高収入志向も高学歴志向も、ぜいたくな生活や顕示的消費を望むのも、資本主義の思想を内面化したホモ・エコノミクスならではのもので、そこから逸脱した「貧乏の子沢山」のような生き方は今日では選ぶに値しない生き方、というより非常識な生き方とみなされるでしょう。

貧乏の子沢山って、全く我が家の話じゃん。正直、子沢山を非常識な生き方だと思う人の増えたこの時代って、どうなんだろって思うんだけど、世の趨勢はそんな感じなんだよね。子育てをしていた十数年前でさえ、そんなに生んで大丈夫なん?なんて事を言われてたんだから、その時よりも益々「お一人様」仕様になっちゃってる今の時代の子育てなんて、絶対大変すぎるよね。うん、子沢山でなくても子育てするのに肩身が狭い時代になっちゃったんだから、本当返す言葉が見つからないっす。

ところで、いまいち意味を理解してなかったコスパとタイパを調べてみました。なんでも「コストパフォーマンスが良い」っていうのが、少ない費用で得られるものが大きい場合で、「タイムパフォーマンスが良い」っていうのが、短い時間で大きな満足が得られる場合を言うことみたい。どちらも勉強や経済活動で使わてきた言葉。少ないお金や短い時間で優れた効果をあげる事を至上命題とする資本主義社会では大切な要素だと思うんだけど、これを子育てにあてがわれちゃうとね、なんだか色々考えちゃう。

経済面や労力面から考えたら、結婚や子育ては余程にコスパが悪いよ、絶対に。この記事では進化生物学を引用して、人間自身に起こった自己家畜化と論じているけど、確かにサラリーマンの多くが決まった時間に起きて決まった時間に会社に行き、お昼になれば食事をし、夕方仕事が終わってといった、1日のスケジュールに小さなハプニングはあれど、こんな家畜のような生活を毎日続けていれば、子育てをコスパで考えちゃう人が出てくるのは当然かな。

でも、いつ天変地異が起こるかわからない世の中で、予定調和的社会が永遠に続くとは思えなくて。でもそう思えるまでに、不安や攻撃性を抑制できるセロトニンが増え、より人懐っこく協力し合える性質になったんだよね。

確かにね、自己家畜化が今日の文化や社会環境を築く上で重要だったのはよくわかる。そして、見ず知らずの人間が集まり生活できるまでに進化した現代人だからこそ、都市に集まって暮らすことができるというのも本当にそう。でもね、やっぱ、経済活動に重心を置きすぎた生き方には、怖さを感じてしまうの。

この世が永遠に続くなんてありゃしない。明日何が起きるかわからないのが世の中なのよ。それ、地震やコロナ禍で散々経験してきたじゃん。筆者の言うとおり、人はホモ・エコノミクスである以前に動物としてのホモ・サピエンス。エコノミクスが本能を越える訳がなく、同性同士のおつきあいや性別変更の繁栄を求める動物的要素に反逆するような人間の増加は、平時にしか存在し得ないわけ。そう、動物の生存欲求なんて、個体維持と種族保存の二つだけなんだから、それを超えるエコノミクス的要素は必要ないのよ。だから、人間にとって最も良いコスパって、効率的に子孫や血縁者を残すことを示す、っていうの、大いに納得しちゃうわけ。

資本主義社会に終止符が打たれるだなんて一ミリも考えたことないけど、それはそれこれはこれ、人の大部分は動物なんだから、先ずはそこに則って生きることを考えないと、幸せに暮らせないと思うのよ。まあね、衝動的に妊娠し出産する人をよってたかって悪者にする世の中なんで、すでにこの世は終わっているといえば終わっているんだけどね。まあその矛先は、これから高齢者に向けられるんだろうなぁ。私が高齢者にマジ入りする頃には、社会保障費の圧迫で、年寄りの病院費用は賄えなくなるんだろうし。労働人口は減るばかりなんで、コスパの悪い高齢者への医療は絶対切られる。そしてこれまたコスパの悪い地方も切り捨てられ、野生動物が田舎町を平気でウロつき、地方の景勝地にはこれから近づくのも困難になる時代が来るんだろうね。そんなクソみたいな時代に備えるためにも、も少し頑張ってみるよ。


少ない費用で得られるものが大きい場合のことを「コストパフォーマンスがよい(高い)」、その逆の場合のことを「コストパフォーマンスが悪い(低い)」という。
「コストパフォーマンス」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書

大切なのは人間関係


ちょっと腰を痛めてしまい、、
そして入院した叔母の見舞いで車に乗る機会が増え、なかなか腰痛が癒えませんでした。
車社会、怖いです(笑)
少し良くなったので、いつものこの小高い山に登ってみました。
真ん中に見える島が宮島です。
やっぱここからの眺めは最高です!


この記事によると、幸せな人生に必要なのはただ1つ、「人間関係の満足度」だそうだ。1300人超の被験者をして80年以上の歴史を持つこの研究の4代目の責任者、ウォールディンガー教授によると、80歳を超えた被験者のほとんど全てが、人生を振り返った時に最も誇りに思っている事として、人間関係を挙げている。

何かをなした、人一倍稼いだ、そんなことで幸せになれるだなんて、誰も思っていないと思うが、巷を見渡せば、どの会社に就職してどんだけ稼いでいるかとか、どの学校に行くかとか、どこに家を買うかとか。人との競争に体も心も壊してえらい目にあっている人の多いこと多いこと。

とどのつまり、人間はあまりに個体が弱いから、コミュニティーを外れて生きることなんてできないのだ。だからアドラー曰くの共同体感覚なのだ。人より秀でることを良しとする生き方から抜けださなければ、幸福になんてなれやしない。

そのためには、人との関係も大切だし、食事に運動、睡眠等、健康にももっと関心を持ちたい。だが健康であってもお金が無いと嘆き悲しむ者がいれば、毎日おいしいものを食べ、毎月のように旅行に行ける経済力があるにもかかわらず、不眠や糖尿、血圧等でつらいしんどいと言い続けている人もいる。人間万事塞翁が馬とはこれ如何に、幸せに生きる難しさをつい考えてしまう。

明日何が起きるかわからない身だからこそ、人間関係と健康、そして人は誰もが死ぬといった、この3つさえ意識していれば、これからの人生、それほど大きな間違いを犯さないような気がするのだが、果たしてどうだろう。

お金があっても無くても、健康であっても無くても、それに対する態度は自らが決める。その時、死を意識すると人生が引き締まる感じがする。借金を返すだけでへとへとだとか、透析がきついとか、でもだ、どっこいみんな生きている、苦しまない生き方をしている人なんていやしない。そう思えば、呉越同舟、死に向かう船に乗る者同士、互いを励ましつつ生きることもできそうだ。とりあえず「たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える」とのルターの言葉も思い出しつつ、とにかく淡々と毎日を過ごしてみよう。死ぬのは怖いが、死を留意しつつ、所属するコミュニティを大切に、そんな感じのことをこれからの羅針盤に、人生後半を生き抜きたいと思うのだ。もちろん不安や心配も溢れ出すが、それでも同じ時間を共有する仲間と生き抜いてみたい。

明日死ぬと思って生きなさい
永遠に生きると思って学びなさい


カップラーメンを平気で食べ、家のドアは常に開け放たれている…いつの間にか100歳を超えた人の意外な食生活
100歳のおばあちゃんの家を訪ねると、玄関はカギがかかっておらず、いつも誰かが出入りしている。要するにおばあちゃんの様子を、周囲の人たちが自然に見守っているわけです。
おばあちゃんに「何してるときが、一番楽しいですか」と訊くと、「テレビ見てるときだな」と答える。食事にしても、カップラーメンを平気で食べていたりする。
この人たちは、長生きしようと思って頑張っているわけでは、全くない。周りの人たちと仲良くしながら、自然に楽しく生きているだけです。

無神経に適当に適応したい


カレーを作りすぎちゃって💦
気を衒いがちな私なので、カレールーの裏に書いている通り、忠実に作りました。
そっちの方が無茶美味い!
ちなみにこっちにきて、ようやく糠床の味も安定してきました。

そして、、
時短に良いかと味噌玉も
お湯を注ぐだけで良い感じ、、
ただ、まだ分量がつかめてません💦

そんなこんなで、なんとか頑張ってます。

この記事を読んで、色々と考えちゃいました。

私は、生物は生きるために生きていると考えているので、ただ生きているだけでも立派なことだと思います。
知の巨人・出口治明が「人生の基本原理は運と適応である」と断言するワケ
出口治明×更科功】「若い読者に贈る美しい生物学講義」

結局のところ、運が全てを支配する。出会いも別れも、生まれるも死ぬも、生きとし生けるもの全て、平等にどこかに生まれ、平等に誰もが抽出されて死に至る。それを自らで選べない以上、運命の導きに身を任せるしかない。

どこに生まれようがどこで死のうが、逃げることのできない運命だと悟れば、そこに適応するしか術はない。偶然の瞬間にだけ生きる私たち、自らの決定は自らの意思であるかのように見えて、実は自らの意思ではなかったりする。全ての決断を思い返すに、偶然というか縁というか、自ら決めたことが実際存在するのかとも思ってしまう。

そこに居合わせたときに、どのように適応するか、どんな意欲を持ち、どんな世界にしたいと思って動くかはその人次第
運が良いとか悪いとか、羽振りの良い人も惨めに見える人も、皆何かを抱えているものだ。誰もがしんどい。生きるのは本当にしんどい。だから、自分だけが惨めに思える時、生きとし生ける者誰もがしんどい、と思うようにしている。そう思えば幾分かは楽になる。嫌なことや腹の立つことなんてたくさんある。だからそんなことに引きずられず、やらなければいけないことを一つずつこなしていくしかないのだ。それは嫌々やらざるを得ないものかもしれない。仕方のないことかもしれない。うん、この「仕方のない」も意外と自分を許す言葉であったりするが、その話はまた。

そんな世界に生まれてきた私たち、生きているだけで立派なことなのだ。何をしようが何をしまいが、今いる場所で生きていくしかないのだ。せっかく生まれてきたのだから、生まれてきたもの同士、良い関わりを持っていたい。とくに年長者として、子どもの無神経は許して欲しい。子どもは無神経に、自らの思う通りに生きようとする。それが当たり前なのだから。それを早くから規律や責任、勉強を促す、先輩風をふかす親がいたりする。守ることや覚えることといった、神経を使い過ぎてしまう瑣末な体験を小さいうちから強要するから、神経質になるのだ。成長に応じて子どもの好きにだけ対応しておけば、神経質にだなんてなれるわけがない。そして特技を発揮し生きやすくなる。この生きにくい世の中で、少しでも生きやすくするのが年長者の務めなのに、なぜに人は反対をしたがるのだろう。

川の流れに流されながら、その中でベストを尽くしてきただけ
人生の流れに流されながら、その場その場でベストを尽くす。そのためには、やらなければいけないことを好きになる努力も必要だ。なかなか難しい場合もあるが、どんなものにも、どんな場所にも、好きになる要素はある。全てを好きになれなくても、少しでもいい、好きを見つけて、生きやすい場所を見つける作業に、努力を惜しまない方が良い。

有事への思いと辺境の再生力


イワシの刺身、巷では珍しいみたいですね。
せっかく広島にいるんで今が旬の小イワシを捌いてみました。

捌くといっても、輪っかにしたPPバンドなる荷造りテーブ(下の写真のようなもの)やスプーンで捌くんで、皆さんのイメージとはちょっと違うかも。

今の時期だけなので、広島に来る機会がありましたら是非ご賞味くださいませ♪♪

老いは如何ともし難い。毎日運動をし、食事にも気をつけ始めているので、若い頃よりもはるかに動けている気はする。だが筋肉痛が3日後に出現するとか、ラーメンを食べる度にお腹を壊すとか、4時間くらいで必ず目を覚ましてしまうとか。ふとした瞬間、老いを感じることが増え続けている。すでに子育ても終わり、生活を広げる必要はない。老いに合わせて人生のダウンサイズを図るためにも、あの京都で過ごした風呂なし台所なしの4畳半一間生活の、物の少ない心地よさをもう一度取り戻したい。好きなものにだけ囲まれ、ちょっとした不便をも楽しみたいと思うのだ。

ところで日本は地震に台風等、自然災害が至る所で起きる国だ。地震について言えば、世界に存在する10枚のプレートのうち、なんと4枚に絡むのが日本らしい。陸地面積は地球上で0.25%しかないのに、マグニチュード6以上の地震は、実にその20%が日本周辺で発生しているという。プレートの配置からして、北海道から沖縄まで、地震の被害から免れることはできないのだ。記憶に新しい神戸と東北で起きた大規模な地震関東大震災からすでに100年、首都直下地震が30年以内に70%の確率で起きると言われている現在、どこで巨大地震をやり過ごすか、ついそんなことを考えてしまう。

そういえば、日本の希望は元来辺境から始まったと、松岡正剛は「法然の編集力」で語っている。当たり前だが、都市の力が弱まった時、その再生を担うのは辺境だ。明治維新しかり、熊野詣しかり。国を、人を蘇らせる力は、辺境にしか存在し得ない。東洋医学もそうだ、脳や心臓は治療点にはならない。あくまでも末端、肘から先、膝から先にある大切なツボを使って治療する。東洋医学を長く学んできた身として、辺境こそが再生のキーワードという松岡正剛の話はとても納得できるのだ。

都市の脆弱性、あれだけの人間が移動し食事をし排泄するのだ、どれだけお金を積んだとしても、有事に生き残る術はあるのだろうか。そして、これだけ鬱や心を砕かれた人間がいて、稼いで楽しんで消費してという煽りに歯向かうことなく、それが当たり前だと、危険察知能力を放棄し、このおかしな社会こそが真実だという錯覚を植え付けられた、その場を離れようとしない茹でガエルと化した人間が多く住まう都会に、未来を考える力はあるのだろうか。

人生のダウンサイズと自然災害の恐怖。特に自然災害を考えた時、家族の分散は考えていたこと。とりあえず家族は北海道に関東、関西、四国に分散している。これだけ散らばっていれば、誰かが生き延びてくれるだろう。また、何があっても誰かを頼ることはできるだろう。地震から逃げることのできない国に生まれたからには、それくらいの危機意識は持っていたい。そして今の社会が永遠に続くなんてありえないのだから、何が起きても動じないよう、少しでも生活の多くを自立していたい。辺境から何もかもが再生するのだ、都会に人々が集まり続ける時代だからこそ、自らの辺境への思いをより強固にし、それを形にしなくては、と考える日々である。

どこの誰とも分からない、自分の思う通りに機嫌を取ってくれるネット住民にどっぷりはまり、井の中の蛙はその居心地の良さに沈んでいく。結果、茹で蛙とばかりにそこに慣れ、ネット社会に内在する危険を察知することができず、いつの間にかそこから這い上がれなくなってしまう。

やらない理由を探す自分


広島のこういう綺麗な場所を紹介できる仕事もしたいな、って( ´∀`)

とうとう動きだしてしまった。仕事と子育てに追われた東京での数十年、コロナ禍を経て、またその最中に亡くなった母の死をきっかけに、ますます受け身になる自分がいた。前回のブログで「やらない理由を探すのが得意」と書いたが、治療院を長くやれば、どんなポンコツ治療家だって既存の患者が何もしなくても来院するようになる。そして自分自身、特に治療院を大きくしたいとも思ってなかったし、身の丈に合った生活で十分だったので、東京にいれば過不足なく生活できたとは思う。

しかし子どもが離れ、人生の最終章を迎え、自らの興味を転々とするうちに、もう少し人とつながる仕事がしてみたいと思うようになっていった。多分それは「無財の七施」を意識するようになってからだ。

無財の七施。これは仏教に由来する施しのことで、金や物がなくても周りの人を温かくする方法だと解釈している。

  1. 眼施(げんせ)
    やさしい眼差しで人に接する
  2. 和顔施(わげんせ)
    にこやかな顔で接する
  3. 言辞施(ごんじせ)
    やさしい言葉で接する
  4. 身施(しんせ)
    自分の身体でできることを奉仕する
  5. 心慮施(しんりょせ)
    他のために心をくばる
  6. 床座施(しょうざせ)
    席や場所を譲る
  7. 房舎施(ぼうじゃせ)
    自分の家を提供する
人を元気付けること即ち、最も確かな自分を元気づける方法だ。この7つを意識することで、やらない理由よりやる理由を考えるようになっていった。また相手の笑顔をより喜べるようになった。実際こちらの、ちょっとした変化で相手の態度も変わる。これを意識するのとしないのとでは、人として生きていく上でだいぶ違う。

ところでこれからやりたいことだが、田舎の、もはや石垣が遺跡化している段々畑を整備し、食育や子育てと結びつけたい。細々と続けている英会話を生かして、外人を大好きな近所の山に連れていきたい。いつの日か、ゲストハウスみたいな人の集まる場所を作ってみたい。治療ももちろん継続したいし、妊婦や子供の治療を、行政や業種の違う専門家と繋がりつつやってみたい。

色々な場面で言っていることだが、人は誰もが必ず死ぬ。その順番は年功序列でもなんでもなく、ただただ無作為位に抽出される。生まれたての赤ん坊も年寄りもだ。ヨガにスイミングに食べ物に、人一倍気をつけていた人が、事故であっけなく死ぬことがあれば、80歳すぎて酒にタバコ、それでも元気に生きながらえている人がいる。いつ死ぬかわからないからこそ、できない理由を探している暇なんて実はないのだ。

悶々と過ごした学生時分、結婚して子どもを儲け、あれよあれよと歳を重ね、いつの間にか還暦間際。人の一生はかなり短い。さあどう生きるか、自分が問われる。

人生の最終章、何をするかどう生きるか、決めるのは自分だ。ちゃんと生きるとはどういうことか。これまで出会ってきた、ずるくて姑息で意地悪な人を反面教師に、豊かに生きる人を人生の師に「親父なかなかやるじゃん!」「じいちゃんかっこいい!」なんて思ってもらえるよう、もう少し頑張ってみたいと思っている。

自分を元気づける一番の方法は、誰か他の人を元気づけることだ
 マーク・トウェイン

ありがとうの一言が周りを明るくする
おかげさまの一言が自分を明るくする
ありがとう おかげさま これが仏教の心です


ここからの眺めもおすすめなのです (^。^)

『雑宝蔵経』というお経に「無財の七施」という教えがあります。先月の「六波羅蜜」の最初に出てきた「布施波羅蜜」を具体化した教えでもあり、無財の七施を行うことで「大いなる果報を獲る」と説かれています。

2023年11月
生き続けたいという動物としての本能に対し、人間は「死」を知る生き物として、どこかに絶望を背負いつつ生き続けてきた。ある意味生き続けるだけで修行じゃないかと思うほどの。